昭和49年08月16日 夏季大祈願祭
皆さんこんにちは、お目出度う御座います。恒例の夏の祈願のお祭りを皆さんと共々におかげを頂きました。そもそも、このお祭りは小倉の初代、桂松平先生の九州の外には出る、桂先生が御本部の御造営を思い立たれた。とにかく金光教の三つのビックリする事がある。おかげのあらたかな事に皆んながビックリする、それから御本部へお参りをさせて頂いて、御本部が余りにもお粗末なので二度ビックリする、と言った様にビックリが三つあると、言われたそうですが。
そこでまっやむにやまれない、先生の御信心がそうせねば居れないものになって来た、燃えて来た。そこで九州中の御自身の出社である所の先生方に計って、それからその事を思い立たれて、その事が成就する事の為に、一つ九州中に大繁盛の御かげを頂かなければならん、九州中に道の比礼が輝き渡る、その事を願いとされて、いわゆる五穀豊穣をする大繁盛の大御かげを祈念されたお祭りが、この小倉関係の手続きに、今も尚伝わっておる所の、この夏の御祭りで御座います。
ですから祈願と言う事願うと言う事、それは天地の親神様も待ち望んで御座る事、氏子が願うてくれると言う事、しかもそれが只我情我欲の願いではなくて、チャンと筋が通っておるところの願い、いわゆる桂先生の場合は御本部御造営と言う、ところの願いを立てられた訳であります。そして御用財の様々な苦心をなさいまして、御かげを頂かれた。私は思いますのに、神様は願われる側、私共は願う側、確かにそうなんですけれども、只、願いと言う事ではなくて。
それは最近の合楽で頂いておるおかげは、例えば筋が立っておろうが、おるまいが、又は半身半疑であろうが、疑うてかかっておろうが、おかげを受けて居ります。だからおかげは、頂くんです。けれども信心しておかげを頂くと言う事は、氏子信心しておかげを受けてくれよ、と仰る信心とは、そう言うものではない。信心とはどこまでも、いわゆる神様を信じ切る心を育てて行くと言う事、同時に私共がいよいよ真心にならせて頂くと言う事、信心同時に、神心であると言う事。
金光様の御信心は、信者全てが、総生神を願う、それが本当の信心だと言われて居ります。皆が生神様を目指すのです、この方ばかりが生神ではない、皆もこの様な御かげを受けられる、と教祖様も御自身が実証なさり、そしてそれを氏子にも、それを伝えて居られる。ですから、私共もやはり願うところはいわゆる、信心、真心、神心である。神様へ向こうて行くのですから、自ずと神心が生まれて来る。キリスト教で愛を説く、仏教で慈悲を説くなら、金光教では神心を説くと言う事だと思います。
神心の中には慈悲もあれば愛もあるのです。私共はそういう神心を目指しての信心にならせて貰う、ですから御かげを頂くという事ではなくて、信心を頂くという事になります。御かげは今申します様に、全然半身半疑であろうが、疑うて懸かろうが、ひとたび御取次ぎを頂いて御願いをさして頂く処にはです。もう本当にそれは、たまがる様な御かげを頂いて居ります、いわゆる、ご利益があらたかだと言う事。
願う氏子に御かげを授けと仰せられますから、願う氏子御かげを頂くか、頂かんか解らん、私は最近思わして頂くのに、金光様の御信心は信じる、信じるから御かげを受けるんだと言いますけれど、今皆さんがおかげを受けて居る人達がどれ程、神様を信じておるかと言う事。どうかこう自分の思う様に成らなかったらもう神様、もうと言う事になって来る。神も仏も在るもんかという様な事、そういう人達でも御かげを受けておる処を見ると信心なくても、疑うておっても、疑い半分であっても。
お願いをすればおかげを受けると言う事が解る。御かげを受けますよ、もう本当に私は、それにもう最近驚いておる奇跡の連続です、毎日成程願う氏子に御かげを下さるな、という事です。けれどもそういうおかげを毎日頂いたところで、勿論最も毎日という事。いつまでも、神様が何時までも、そんな甘い御かげを下さる筈がないのですけれども、本当は神様も信じて貰いたい。言うなら、親と子が信じ信じられたい。親の事は子が頼み、子の事は親が頼み。
神様と氏子が、あいよかけよで立ち行く願いというものを、神様は願いとして居られる。神様ですから、言うならば、御かげを受けるという事は、神様を信じる一つの手立てなんです、御かげを頂くという事よりも、だから信心を頂くという事になる時にです。「御理解2節」ですか、信心をすれば誰でも御神徳が受けられる。しかも、その御神徳というのは、あの世にも持って行け、この世にも遺しておけるという、ならはたして、金光様の御信心を頂いて居る人達が皆な御神徳を、みんな頂いて居るか。
もう本当にそれこそはもう、( ? )御神徳から御神徳を受けられたというのはもう、それこそ、めったにない程しに、けれども教祖様は嘘を仰って居るとは思われない。信心すれば誰でも御かげが受けられる。神徳は満てると言う事が無い、だから教祖様が仰る信心をすればと仰る信心は、私共が今申しました、私が申しました。私共の御かげを頂くという事では無くて、信心を頂くという生き方になる事。
お参りの形でも、お供えの形でも同じ事なんです、だから十年お参りをしておっても、只御かげを頂くから、有難いからお参りをして居ると言うならばです、同じ事であっても、片一方は信心を頂く事の楽しみ、喜びを持ってすると言う生き方になると、天と地程に違う。あの世にまでも持って行かれ、この世にも遺る程しのものが頂かれる。それを御神徳と言うんです、だからそう言うなら、御神徳は信心をすれば誰でも受けられるというのは、只今申しました。
私共が先ず御かげを受けて、なる程神様じゃなと、神様をいよいよ信ずる心が生まれて来る。それは自分の都合に良い時だけ信じるのでは無くて、どの様な場合であっても信ずる事が出来る、それを極めに、極めて参っております内に自分の真心が欠けておる事を悟らして貰うて、真心をいよいよ追求して参っておりますと、力が受けられる。神様をいよいよ信ずる事が出来れる御かげが受けられる。
もちろんその様な御かげを頂いて居りますから、時々ではあるけれども、我と我心が拝みたい様な、有難いものを感ずる様になって来る、もう我心の中に生き神様が、いわばいよいよ生神の値打ちを発揮しておられるんです。そう言う信心。だから生神を目指せば神心は、だから自ずと湧くのです。人間だから人間心を使う、どんなに信心をさせて頂いておっても、人知人間の智恵を持って生活したり、人間の智を持って成して行く、それはま、小さい例で言うならば商売というても良い、事業というても良い。
金光様の信心もしとる。どうぞ御かげを頂きます様に、御かげを頂いておっても、それは結果は必ず空しいものになる。これは今朝からの御理解ですですからどういう事かと言うと、いわゆる、神様を信ずる力が段々出けて来る所から、神様の言うならば御神意を体して、御神意のままに、自分が中心では無くて神様を中心と申し上げる所の生き方が、段々身に付いて来る、そう言う生き方から生まれて来る御かげが、子孫にまでも残しておけるものであり、又はあの世にも持って行けるというものになるのです。
昨日一昨日、合楽に野口さんと言う方が居ります、丁度一年前にお国替えになられました、大変な熱心な信心をして居られました。けれどその後、家族の方達の信心が、もういよいよ生き生きとして、御かげを頂かれる様になった、丁度その一年の、いわゆる杞憂日に一年の式年祭が御座いました。私はあちらへ参らせて頂きました。ひじょうに親切な方達も見えて居られる、ここでは緑会の会員でも、お在りになりましたから、旧緑会の方達がもう、一緒に大変賑やかな。
まるきり、宅祭りの様なにぎやかな式年祭でした。あちらで私が皆さんに聞いて頂いた事なんですけれども「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という句があります「幽霊の正体見たり枯れ尾花」例えば、枯れススキなら、枯れススキがそれこそ、夕方ほの白く動いたりして居ると、此方から見ると、なんか人間の様に見えたり、それこそ、幽霊の様に見えたり、けれども、実際には側まで行って見たら枯れ尾花であったというのです、私は本来信心とは、それだと思うんです。
どんなに難儀な事だ、腹が立つ事だと、どうして、私だけがこの様に貧乏くじを引かなければならんだろうかと、いう様な事であって情けない。血の涙を流す様な思いをして居りますけれども、信心によって、そのそういう難儀が起こって来る、その根本の所、根の所を解らせて頂くと、それは腹の立つ問題では無い、悲しい問題では無い、むしろお礼を申し上げるべきだと、むしろお礼を申し上げなければならないのだと、それは神愛だという事が解って来る。私はそれが信心だと思うんです。
ですからこの世の中には信心させて頂いて居れば、恐いものは無いと言う事、困った事は無いという事、難儀な問題というものは無いのです。けれどもそれを難儀な問題として取り上げて、その問題をいわばややこしゅうして、問題が又問題を生んで行く様な結果にすらなって来るのです。本当に私一日御取次ぎさせて頂くと、特に家庭の問題なんか、もしこれが信心が無くてです、人間心ばかりで動いたら、どういう話になって行くだろうかと、いう御取次ぎを幾らもさせて貰います。
そしてぎりぎり神様が御かげを下さる。そして初めてあれも神愛だったと、おかげで信心が出けましたという様な事になって来る。誰でも信心をすれば神徳が受けられるというのは、そういう、例えば、問題をですネ、問題としないで、それを神愛と解らして頂く所まで極めて行かなければならんのです。それを信心の稽古だと私は思うんです。私が椛目、合楽を通して二十五年なります。
自分でも不思議でたまらなっかたんですけれども、ハハア、これが合楽の言うならば、御流儀と言う事になるのであろうか、とまで思うて居った事がある、と言うのは私共は随分それを教えられました。人が助かるという事、御導きをするという事、金光様の信心の、有り難いという事を人に伝えて、真の信心をさせるのが、神へのお礼だと迄、御教え下さってあるのに、私の場合は、御信者さんに、二十五年間の間に御導きをしなさいという事を、いっぺんも言った事がないという事なんです。
只、御かげを受けた人が、受けた人へ伝わって、そして御願いに参って参りましたら、御取次ぎをさせて貰います。おかげを頂く、又信心が解って来るから今日まで。言うなら、現在の合楽の信心者、信奉者は、ま、続いて来て居るという事なんです。ところが最近、ここふた月ありますけれども、それこそ、二十五年間、守って来た沈黙を破って、もう、人の顔さえ見れば、言うならば、合楽の信心を語る。
金光様の信心の話を聞いて貰う、そして、合楽で、おかげを受けて居る事実を聴いて貰う、変われば変わるもんだと自分でも、不思議に思うて居ります。この頃から、私の婆ばの三十五年の式年祭を致しました。親戚の者にも何人も信心をしない者が居りますから、今まで親戚の者に信心を勧めなんかした事がなかった、けれども親戚の者に一生懸命私が話した、私が親戚の者に、そん時話すんです。
今日はいわば、あの私の婆ばの三十五年の式年祭だけれども、その婆ばが信心の元を取ってくれた、一番始めに信心を頂いてくれた、ですから信心の合楽での元つ親である。それで総代の方達にもお参りして、一緒にさせて貰った。そして私が皆さんに、その時聴いて頂いた事は、今日は、婆ばだけに対する処の御霊様のお祭りでは御座いませんでした、実は、合楽に御縁を頂いて居る、もうありとあらゆる御霊様達が。
合楽に御信縁を頂いて居る人達が、御霊の世界で合楽の世界に居る人達がみんな、言わば仏教的な言葉で言うならば、極楽に行って居られる、水が飲みたいけれども、水も飲めんという霊は一人も居ない。辛い物が欲しいと言や辛い物が、頂けない霊は一人も居ない。ところが自分が極楽に行って居るという事すらも気が付かないで、私はその前々日に私の叔父に大変お酒の好きな人が在りました。
その人が、あのサントリーの丸い高級なウイスキーがあります、あれでその小さい蓋に注いでついで、それをなんか気兼ねしながら飲んで居る処を頂きまして、どんなに美味しい物でも、人の目を忍んだり、気兼ねしながら飲んだんでは極楽ではありませんです、それを頂いた物として有難く、合掌して頂いてこそ味わえるのであり、極楽なんです。それで私は気が付かして貰う、せっかく酒の好きな人には最高級な酒を与えられて居りながら、本人は、それを有り難いという事に気が付いて居ない。
極楽に行って居る事に気が付いて居ない。合楽に御信縁を頂いて居る御霊様の、ありとあらゆる、御霊様達を全部なら、総集合してもろうて、言うならば、極楽宣言をやったんだと言うて、その時に聴いてもろうた。先月ここでは敬信会というのが出けました。六十五才以上の老人の方々で信心の稽古を致します、もう大抵熱心に私の話を聴くのが楽しみに、その日なんかは、私がもう四時半頃立ちますから。
もうあんまり有難くて感動して、なんか酔った様です、立ち上がれないというて、又二、三十分も信心の話をして、もう夕方ですけれども、あの話して帰られたと言う位なんです。その位に熱心に皆さんが、あの二十九日と言う日を待ち望んでお参りをして見えられる。始めの間は養子の悪口、嫁の悪口、本当にこの年を取ってから、こんなに難儀なと、言う様な話でしたけれども始まった頃は。
もう最近はそうでは無くて、反対に嫁が悪いとじゃ無かった、養子が悪いとじゃなかった、自分自身の中に、そういうものが在ったんだ、という様な事が解って、事実みんなから大事にされて、今日も孫がここまで、自動車でここ迄送って呉れた。今日も皆さんが、お出になられるなら、というて軟らかい物でも作って、皆でお茶を上がって下さいというて、兎に角色んなお茶受けなんかを用意して見えるんです。だから信心の共励会でも、一番先にお茶を飲んで一番先にお茶受けを頂くのは、この敬信会だけです。
そしてそれを一ぺんに頂き終わってから、皆で茶呑み茶碗を片付けて、片付けてしもうてから、私が言うんです。皆さんそりゃお豆さんもありゃ饅頭もある、色々なお漬物も有る、お煮付けなんかも有る、それを何にもです、もう七十にも八十にもなるお婆さんやらが、みんな平らげてしもうてから、もう丼も空になる位に食べてしもうてから、しかもうまうまと美味しそうに食べてしまわれる。
だからお婆さん達にね申しました。これだけでも貴女方は極楽に行っておるよと、言うて話しました、どんなにご馳走が前に並んでおっても、見たばっかりで、もうむうっとするとか、食べたいけれど、これ食べよると胃が堰くとか、腸が悪くなるとか、という様な、もう心配も苦言も無くてです、それを美味しう頂いて居られるという事だけでも、貴女方は、言わば山海の珍味を頂いて居られる極楽者だと私が言うんです。
家庭の中には孫が嫁が、皆んな大事にして呉れる、しかもここ迄も参って来る、言うならば相当遠方からみんな参って来て居ります、歩いて参って来て居る人達もあります。だから歩いてここ迄参って来れるという程しの元気な心、又は元気な身体を頂いて居るという事だけでも極楽なんです。貴方方がお小遣いに不自由する、お参りしたいばってん、御初穂もなかけんで、という人は一人もなかそうな、丁度二十六人居られます。
皆んなそれこそ、孫が子供達が用意して呉れた御初穂を御供えをさせて頂いて、しかも元気でお参りが出けて、しかも只今見て居ると、あのお茶受けがもう空になってしまう位に、うまうまと頂かれると言う事を頂いて居るという事だけでも、これはもう極楽に価するものだ。先日から、私はそういうお知らせを頂いた、皆が御かげを頂き足らん様に思うて居るからおかげが死んでしまって居るのだ、どれだけ頂いても、どれだけ受けても、御かげを頂き足らん様に思うておる。
だからおかげそのものがもう、半死半生である、又は枯死寸前であったり、枯死したりして居るのである。だから伸びもしなければ、育ちもしない。今日からは貴女方は極楽に行って居るんだから、極楽の喜びを、神様へお礼申し上げなければいけない。それこそ御霊様達が最高の、例えば、お酒を頂いて居っても、気兼ねしながら呑んで居ったんでは、それは極楽とは言えないね。
私はこの合楽で五年、十年信心を続けておられる方達をずうっと、こうやって見渡して見ました。そして成程おかげを受けて居るなあ、合楽の御信心を頂いて居る方達が第一に、貧乏する者が無くなったと言う事です。と言うのはそりゃもう巨万の富を作られたと言う事じゃ無いです。やっぱりその日暮らしの人も沢山あります。けれども不安もなからなければ、心配も無い。もう今日で食べる物は終わったけれども、神様が明日は、又御都合して下さる事を信じ切れる信心を皆さんが頂いて居られると言う事である。
たけだけでは有りますけれども、百円のその日暮らしが出ける。千円のその日暮らしが出ける、一万円のその日暮らしが出ける、御かげを頂く為に、私共は信心の稽古をさせて頂いたが、合楽の信心を頂いて居られる方達が、そう言う言うなら御かげの中にあるのを見せて頂いて、御かげ頂いたもんだなあと、第一合楽で五年も信心するなら、第一薬箱がみんな無くなってしまいます。
是はもう本当に不思議です。痛い痒いが直ると言う事も有難いけれども、いつもまめなのが有難いのぞと、仰る様にいつもまめで居れる程しの、もう薬のくの字も言わんで済む程しの御かげを頂いて居ると言う事実を、私は一人一人の上に見た一人一人の上に感じた。次に合楽に御信縁を頂いて居る人達の家庭に、家庭の中に不安が無いと言う事である。争いが無いと言う事である。
そりゃまあ夫婦喧嘩せんかちゅうと、やっぱしまあ親子も喧嘩もしよるけれども、家族が信心をさせて頂いて居るのですから、ギリギリ言うて、言わば結論はほんなら親先生はどげん仰るか、そこで答えは出て来る、ほんなら病気一つもせんなんて、言いよるけれども、そら病気をしてもです、御神米でおかげが頂けれる、御神酒でおかげが頂けれる事実をみんなが体験してるね。
私が今日の御祝詞の中に申した様に、どうでも世界中の氏子がです、争いの無い世界に住む、貧乏の無い世界に住む、病気の無い世界に住めれる事実がネ、もしあるとするならば、そういう道を本気でみんなが学ばして貰わなければならないという事をです、ほんなら合楽が現在、御神縁を頂いて居られる方達が一つ手本ともなり、見本ともなって、まあだ自分所が手本にならんと言う事ならば、合楽の教会を見て下さいという事になって来なければいけない。
先月でしたか尾道の、尾道教会の御信者さん方があちらの親先生、若先生、私ぜんぜん知りませんでしたけれども、まあ合楽の噂を聞いて一遍お参りがしたい、あちらの信徒会長から、懇切なお願いの手紙が参りました。それでお待ちして居りましたら、見えられました。私は知覧、九州戦没者( ? )なんか、こうやって廻られる。そしてついでに寄られるのだろうと思っておった、処がわざわざ、合楽教会に四十四名と言う方達が団体参拝をした。そして私のお話を聞かせて頂きたい。
大変感動されました「おかげの泉」と言う、ここの毎月出ております御本がもう、沢山、毎月毎月、何十冊と残っております。それが全部売切れました。3万5千円がたから売れました、前からあの( ? )とか、何かこうして、まだお金を取りにこられない人達が、そう言う何かまでみんな買うて行かれました。そしてそれから御信者さん方、先生を始め信徒会長始めです。
合楽に御神縁を頂いた感激を、感動をもう本当にこれ以上のほめ言葉は無かろうと言う言葉で、第一もうとにかくおごそかなお広前である、そして始めて参ったと言う様な気がしなかった。その時に丁度あの婦人部の方が、お茶位入れんなるまい、ちゅうてそのぼた餅を作ってくれた、いろいろ真心を込めて皆さんが作られた。そしてその親先生と信徒会長が(?)んですけれども、そのぼた餅をながめて信徒会長と親先生が顔を見合わせて涙をポロ、ポロと流されました。
こんぼた餅をよっぽど好きじゃろうか、と言う位の事じゃ涙こぼれませんよ、本当に先生恐れ入りました。私の方の先代がもうこのぼた餅には目が御座いませんでした。しかもこれは普通中身が粒餡になっておって、それが大好物でした。神様が見通し聞き通し、今日のお参りが無駄じゃ無かった事が信徒会長さん解ります、と言うて親先生が感動してお礼を申し上げました。そのお手紙の中に合楽に始めて御神縁を頂いて、本当の極楽を合楽で見たと言うて居られます。
その中の方で何人か「おかげの泉」を愛読して居られる方が御座います。その「おかげの泉」の中お話の中に、私が私の両親のお話をしてして居る事がある。こちらに九十にもなられる御両親がまだ、御壮健に居られるそうですが、是非一遍お会いしたいとそれで案内してから、あの両親の所で、もう両親の手を握ってからもうこうこうして、その喜ばれました、そして部屋々を見せて頂かれたり、庭を御覧になったりして、親先生のイヤ私のお話の中に出て来る真善美の足ろうた世界とは。
こう言う世界であろうかと、言うて居られます。九十になります両親が、まあだ肩を揉んでくれ、の腰を揉んでくれ、と言うた事がない。朝の三時半に私と一緒に婆ばは、朝ここにお広前に這い這いしながら出て来る。それこそあちらに参りますと私は小遣い一つ上げた事も無い、甘な辛な一つ持って行った事はない、けれどもどなたかが、何時も甘な辛なが揃えて有り、夏は涼しく、冬は暖かい。
皆の子供が孫が又は御信者さんから大事にされて、こちらのお祖父ちゃん、お祖母ちゃんこそ極楽だろうと、こう皆さんが言われる。言われて見て私は改めて又、自分で御かげを受けて居る事に気が付いた。私共夫婦もまだ、夫婦喧嘩をした事も無い。長男夫婦に御かげで、二人目の子供が息子でしたから、言うならば信心の三代目が誕生した。もうそれは皆さんが合楽の裏に行かれて、家庭の状況を見られて、別にあなた、こなたと言うて、大事にし合うと言う事もないのですけれども。
何とは無しに、そう言う極楽ムードがあると言う事、どの部屋へ行っても、まあ立派なと迄はいかんけれども、まあ部屋々に色んな美術品が飾って有る。四季折り折りには取替えられる。それが私が求めたり、又はねだったりして頂いた物でなくて、何時の間にか、そういう物が集まっておったという事。嘘の無い世界言うならば、悪の無い世界、言うならば麗しい美しい世界、そういう、真、善、美が足ろうた教会として尾道の信者さん方は、私共は気が付かなっかったけれども。
言われて見て成る程そうだなあと私はそう思うた、婆ば達が居ります庭にはもう、四季折々の花が咲いて居る。前には大きな泉水にそれこそ、緋鯉、真鯉がいっぱい泳いで居る、そして甘な辛なは言うに及ばん、体の上に、痛い痒いも無いと言う程しの、おかげを私共が、言うならば、まあ( ? )にもならん、二十五年余りでしょうけれども、それこそ薬一般、お医者さんに手一つ握って貰わずに今日迄御かげを頂いて来ておると言う事実なのです、だから私が合楽にお参りしたいとか、言う人には何時でも良い。
貴方がお参りしたいと思う時にして下さい。じゃなかったら準備したり、用意したりするといけないと私は申します、そして実際に見て下さい。そして私の話を聞いて下さい、自分の家庭生活の中にはネ、いわゆる真の反対は嘘と言う事である、欺瞞である余りにも多すぎる。善の反対の悪がある、極楽に暑うして「どんこんされん」とか、寒うしてこ堪えんとか、又はもうこうして荒し回っておる所の家が有ろう筈は御座いませんよ、だから神様が下さっておる物を活かすという事。
それは必ず美術品なら美術品という事じゃ無くていいでしょう。雑誌の切抜きでもいいです、自分の好みに合うた絵が有るならその絵でも見て楽しめる様な、部屋は何時でも綺麗に整頓して、部屋には何時も、お花の一つも差して在るという様な雰囲気が私は極楽のおかげを頂くためには必要だと思うです。そう言う努力が為されなければいけません。最近二十何ヶ所が有りますでしょうか、毎年宅祭りをされる御信者さん、そのお家に参りましてから、ま愈々たまがりますのは、言うならば合楽の小型である。
何処も愈々美しゅうなった、そして親先生好みに、色んなものがこう飾って置いて有る、中々言うならば( ? )も越えて見えたと言う様に、お互いの家庭の中にそう言う、真、善、美、の足ろうた、おかげ生活をさして頂いて居られる。そこで私は合楽の皆さんに、貴方がたは極楽に行って居るよ、という事を言うんです。言われて見て始めて気が付いて、成る程極楽だと、それで今までおかげが受けられなかったのは、まあだ頂き足らん様な、不足不満であるから。
御かげが伸びなかったのだ、これからはおかげをおかげと言わば直視して、それを御かげと解らして貰うて、お礼を申し上げる心で願うて行く処からおかげが育って行く、おかげが成長して行く。これ皆さん本当にそうなんです、おかげの頂き足らん、ごたる思いの時には、もうおかげが其処までで留まって居る時です、ですから今言う様に、いやぁ家も親先生が言う通りに、家も極楽に極楽のおかげを頂いて居ると言う事が解らなきゃいけん、先日久次さんと言う方がお夢を頂いた。
合楽にまお参りをして来るところが常持で降りた、そして常持で茶畑を作ろうち、言いよるところを頂いた。私がいつも申します様に合楽と言うところは本当に不可思議なところだ。私が善導寺で御導きを頂いた、善導を受けた、良いお導きを頂いた、ほんとにおかげを頂いて来た六十年、七十年の間に、もうほんとに数限りないおかげを頂いた。私共の無い命を二遍も助けて頂いた。そう言う程しの、おかげを頂きながら、御かげをおかげと感じきって居なかった。
一番初めに申します様に、只御かげを頂くと言うだけの信心であった、それが終戦と同時に引き揚げ、それから、言うならば本当の意味の信心の、まなこが開け出して来た、ね。そこから愈々それこそ、私の貧乏時代を知っておる方は存じて居る様に、本当に食べるに食が無い、着物が無い、そう言う難儀な中に借金は、もう負い被さって居ると言う時代に私がお話をすると、大坪さん本な事、そげん有難かですか、善導寺の久保山先生なんか言われよる、ですから私があの、有難いお話しをするのに。
いやあの時分から付いて廻りよんなさった。こう言う例えば人間の一番苦しい、難儀の中にあって、有難た涙が零れる程しに有難いと言う事がです、本当とは思われない程しに有難かったです、それは、おかげを頂かなければならんでは無くて、信心が解りたい、もう愈々真の信心が解らして頂きたいと言う信心を頂いて行くと言う事の目指しが変わった、焦点が変わった、そこを神様が喜んで下さって居ったのであろう。
その神様の喜びが私の、大体喜び等であろう筈はない、中に私に喜びを与えておって下さったんだと言う風に思います。善いお導きを頂いて善導を頂いた、そして始めて何十年ぶりに有難い、勿体無いの信心が解って来た、勿体島に到達した。その頃には私の話を、もうそれこそ、随喜の涙を流して聞いて下さる方達が、沢山でけて居ったと言う事です、言うならばあの椛目の時代に門前市を成す程しの、言わば御信者さん達方が出けた。人が助かって行ったんです。
その有り難い勿体ないを、言うならば持ち続けて、それこそ大坪総一郎の心の中に咲く花は、もうとにかく天地の親神様より、他に知る人はなかろうと、それこそ空海ではないけれども、そう思いました。私の心ん中の喜びはです、誰も知らん誰も解らん、けれども私と神様だけ喜び合うて居るという事は誰も知らなかった、言うならば既に椛目という事は木へんに花と書いて在る、心に花を咲かせて来る所だ、椛目というところはと皆に其の時言ってました。
椛目には信心の喜びの花を咲かせに来る所なんだと、そしてそれを常に持ち続けるというのが、常持ちです。だからその、だからもう其の時、既に極楽で有った、もうやれやれここで良かと言うとったら、只極楽に行ったぎりじゃった、言うならば橋の上にちゃんと座って、こげしとった、退屈だろうと思うんです。合楽と言う事は極楽のもう一つ先の事を合楽と言うのです。
もう合楽は目の前に見えて居る、それに久次さんのお夢じゃないけれども、もうここで良か良か、ここ常持でお茶畑でも作ろうと言う事はです、ここでお茶でも、やぁ一服しようという事だろうと、だから私が今合楽の信者さん方、朝参りでもして来る方達に申します。あんた方極楽に行っておるから、極楽に留まっておっちゃならん、極楽に留まっておっただけでは、決してお徳にもならなければ、神様も喜んでは下さらん。
もう目の前に合楽が見えてあるのであるから、合楽を目指さなければならんという事、最近ここで合楽示現活動と言う言葉で皆さんにお話を聞いて貰っている。今日のお祝詞の中にも申しました、合楽示現活動、示現と言うのは示し現すという事である。私は合楽を現すという事は、只、合楽を宣伝するという様なものでは無くて、合楽そのものが天地の親神様の、言わば大願なのですから、言うならば神様と氏子が、拝み合えれるという事、神も助かり氏子も立ち行くという意味なんです。
合楽とは主人が喜んで居るなら、家内も喜べれる、親と子が喜び合えるという意味なんです。合楽というのは、それにはお互いの信心の過程というものが先ず、善導を受けなければならない、そして、有難い勿体ないを追求して行かなければいけない。そして心に常に喜びの花を持ち続けさせて貰うて、その喜びを持って人に示現して行く、示し現して行く私を見て下さい、私の一家を見て下さい。
昨日ここに、もと立川さんという総代までした、本当に良い信心をして居りましたが、もうアッと言う間に創価学会に入った人があります。もう十何年になります。あれ程信心を頂いておられて、本当に惜しい事残念な事だと、それで吉井のコバイさんが実懇にして居られましたから、時々お出でられる、昨日もお土産どん持って行かれた、もうそれから十何年にもなるが、ずいぶんおかげを頂いて御座ろうと、ところがもうそれこそまあ、赤貧洗うが如し、ちゅう事は、こげなこっちゃなかじゃろうかと思う様な。
お粗末な家に住んで居られた。今何かしよんなさるですかと言うたら、前の工場で何かは作りよる。その工場ちゅうのはもう掘っ立て小屋んごたる。もう立川さあのまま合楽で御信心頂いて居られたら今、合楽には貧乏どん、しとる人は居りませんよ、難儀な人なんか居りませんよ、本当にもう争いも無からなければ、貧乏もない病気も根絶と言う程しの御かげを皆さん、そこでです。
私共が極楽の御かげを頂いて、だから極楽を自分で認めなければいけない。本当に何を食べても美味しい、ならもう山海の珍味です、百味の御じきです、おかげでここまでお参りが出けて居るという健康を頂いて居られるならばです。それはもうほんとに有り難い事なんです。それで私共がこの様な、おかげを受けておるという事実をです、私共がそれを人に伝えて行く。先月から「こうりん」という事を頂いた。
光の輪と言う事を頂いた、ね。お互いが頂いておる光、例えて言うならば、合楽になぜ合楽が宣伝されなかったか、何が合楽では先生がお導き、という事を言わなかったか、それは私じゃない、私は言いたい、宣伝もしたい、お導きをしなさいと言いたい、もうあんたそげなおかげを頂いとるなら、その御かげを人に伝えてお導きせなと言いたい。けれども、神様は決して言う事を許されなかったです。だから、もうこれが、合楽の御流儀になるものとん、ばかり思うて居った。
ところが二十五年間経った今日、言うならようやく先月から初めて、合楽示現と言う事を頂いた。言うならば、二十五年の間に沈黙を守って居る間に、溜まりに溜まった光が、私はこれを銘々が言うならば、知らせて行かなければならない。合楽の信心も変わった、ここの修行生の方達はもうそれこそ、十日も十五日も断食をしたり、お山の水を頂きに行ったり、様々な表行をして居った。私はもうそういう事は金光様の御信心ぶりじゃないよと言っても、止むにやまれん思いでするのです。
皆んなが、御信者の中にも随分ひどい表行をなさって居られた方が在りました。けれども、もうそういう表行をする人はもう、合楽の船には乗せんと、私がきつくいう様になりました。一月あまり言うならば、今迄はです凡夫の事であるし、言うならば凡夫から道を開くのであるから、中々暇も入りゃあ、骨も折れると教祖が仰る様に、骨の折れる時代であった。これからは、神が道を開くという時代なんだ。
言うならば、他力を中心にするところの、信心で自力と言うものは、「従」立場になるのだ、今までは、自力の信心に対して、言うならば、他力が「従」の様な形であった。言うならば変わって来た、そして言うならば自転車です、自転車でヨーヨー踏む位な、御かげであったのがです、神様の御かげで、そうだろうと思うです。最近一ヶ月余りの、それこそ毎日毎日の、ここで現れて居る処の御かげと言うものは、それこそ死人が蘇るという程しのおかげを頂いて居るです。
もうこの問題だけは解決出来る筈が無いと言う問題がもう、不思議な不思議な事から解決のおかげを頂いて居るです、もう是は驚きです。成る程神様がです、言うならば、神が道を開くと言われる。言わば段階になったんだな、という事を感じずには居られません、言うならば、漸く本当の金光教の信心に二十五年振りになり得た、という様な感じがします、勿論これはスッキリとした、もんじゃありません、是が又限り無くスッキリとしたものに為って行かにゃあならない。
是が私だけではない、他に御かげを頂いて居る御信者、御信奉者の方が皆んなその気になってしまわれるという事にはです。繰り返しこの事を聴いて貰わなければならない。体験もして貰わなければならないと思います、私の様な言うなら無力の者でもです、最近の言うならば世相と申しますか、言うならば大きく、言うならば地球上にも起きておる、様々な難儀な問題と言う問題がです、もう本当にもう、これでもう人間の世界は終わるのでは無かろうかと、危惧される様な事ばっかりです。
第一この頃から言うなら資源の問題、次に人口の問題、次に公害の問題、その事を神様に祈り願わせて頂いておってです、本当になんか、もうぞっとする様なものを感ずるです。これはいよいよです、私はその事を神様にお願いさせて頂いて居りましたら。氏子が自分で自分の首を絞める、括る様な生き方をするから破滅になると仰る。人間の智恵です、そして自分の首を括って行く様な結果が、今現れておるのだとね。
そこでです合楽で言うて居る処の教祖様が教えて下さる処の、一年勝り代勝り神の大恩を解らして貰うてです、愈々自分で自分の首を括る様な生き方では無くて、愈々広がりに広がって行くと言う道を辿らせて頂くと言う、私は人間氏子の上にそれこそ、生き残れる人々としておかげを受けられるんだ、神の栄光を受ける事が出来るんだと思います。お釈迦様も言うておられたそうです、キリスト様も言うておられたそうです、世も末又は最後の審判等と言う様な御教えでです。
その言うならば、予言の時期がもう、近づいておると言うて居られる方達もある位です。私はそれをネ、皆さんを言うならばそれで脅かすと、何とかと言うのじゃありません。問題は今日只今、おかげを頂かなければならない、そのおかげを頂くならばです信心を頂いて、その信心におかげが伴うて来る、言うならば自然派のおかげが頂かれる。本気で魂を清める事に、本気にならなければいけない。日々の改まりが大事と仰る。
本気で改まる事に焦点を置かなければいけない。そしてですならまあ、合楽の方達を見渡して見るとです、そう言うおかげの例えば、そんなら地球を破滅する様な事になっても、合楽の方達は破滅はしないなと思われる様な道を歩いて居ると言う事なのです、そこでですなら私共だけが生き残れば良いと言う事であってはならんのです、それを自分が周辺に広げて行って、それは大を言うならばです、地球上に住む人間の氏子の全てに、私共はそれは口で唱える言葉としては、世界真の平和も祈らして貰うね。
世界総氏子身の上安全も、祈らして貰うけれども、それには、只祈っておる、願っておるだけでは無くて、私が先ずおかげを頂いて、私を見て下さい。私が、合楽の状態であると言う事、極楽の御かげを頂いて、その極楽の、もう一つ向こうに在る、合楽のおかげを頂いて、神様の喜んで下さる、氏子も立ち行くところの信心をです、皆んなに広めて行く、と言う事がです、私共の責任と思わして頂く位な、信心を持って、おかげを頂いて行かなければいけない。
今合楽で、もう今までのです、関を切った様にお導き等と言う言葉がなかったもんですから、もうそれをバスの中であろうが、電車の中であろうが、もう一生懸命に話を伝えられる。今日の朝の御理解はこうでした、親先生はこう教えられました。もう誰彼なしにお話をすると言う人達がです、言うならばです段々増えて来た、福岡から毎日、日参を続けて居られます。川上さんと言う方があります、もういつも楽しゅうてこたえん、
もうバスの中でも電車の中でも、もう隣に座ったらもう、この人は御神縁が出けたと言う思いで、その貴女はどう在んなさるですか、お家は病気が在なさらんですか、病気があると言えば御神米を上げる、「おかげの泉」は何時も何冊か持って居って、この御本を一遍、読んでご覧なさい、そしてどうぞこれ百円ですから買うて下さい、ただで上げる分には易いですけれど、ただで貰うた分、御かげにならん。
貰う分じゃ、だからもしこれが貴方が一ヶ月間の間に、これを必要な時に所々でも良いから読ませて頂いて、生活の上にプラスにしない様な事であるなら、百円はお返ししますと言われる、そしてその読んで貰おうと、こう言う御かげを受けて貰うと、本とに皆さんが喜ばれる、又電車の中でお目に掛かれるといいです、と言って言われる方達もある。ところがです二三日前から二日間続いた、それはです隣の方に言われて、お話しだした、わたしは金光様にこうやって、お参りをさして貰うからおかげ頂いた。
もうそれこそリュウマチと言う、もう親戚がお医者さんですから、もう長い間治療さして頂いたけれども、良うならない、そもそも私は13年も結婚して子供が出けなかった。親先生にお取次ぎを頂いたら、その月から月のものが止まった、そしておかげで年子を生み、もう、立派な息子を二人続けて頂いた。もうその子が二人とも大学に行っております、と言う様なお話を、私はリュウマチでいよいよ、もう病気医者ではいけないと言うので、もう本気で一つ、合楽のおかげを頂きたいと言うのでです。
いわゆる医者も薬も断って合楽のお参りさせて頂く様になったら、御かげでそれが嘘の様に直っておる事実を聞いて貰う、と言うて話した処がその方がです、私は創価学会ですと言われた、あゝそうですか、そんなら一つ創価学会の話を聞かせて下さらんか、まあ向こうも一生懸命話された、そして創価学会のお話しが良かなら、私も創価学会になるけんで、それからまあ一生懸命話されたそうですか、合楽ではこうこう言われますと言うたら、ほう良かこついわっしゃるですのと、じゃったと言う風じゃった。
それでもへこたれません、あくる日もやっぱり隣の人に話をしました。そしたらその人は私は天理教ですといわっしゃる、じゃみなさんが本気でその気になると、なると矢張りそう言う私しゃ、あのお試しも又あると思うです、一遍お話に行ったら、そげな話は聞こうごとなか、一遍で断られたけれども、それに負けてはダメです。それに勝って行くそこにそう言う難儀な人が、神も仏も知らん人があるのですから、解って貰はねばならんと言う、私は信心がいると思うですね。
だからどん、一遍どん、断られた位の事でへこたれよる様たっちゃ、合楽示現運動、活動、参加しておる。そういう運動に参加しておるとは言えません、そして自分の周囲にです、そういう生き方があるのか、そういうおかげの頂けれる道があるのか、と言う事を私が受けて、それを見せたり聞かせたりして、人に伝えて行くという様な働きが今、合楽では、もう一つ熱気を帯びて、そういう働きが始まっております。
それこそ、薬りの能書きの様に効きもせんと、効く様な話をするこたあいらん、実際に自分が受けて居る御かげ、そして私が極楽に住んでおる。おかげしかももう極楽だけではいけん、合楽を目指さなければと、いう生き方にならして頂いて居る事実を、皆さんにも聴いて頂くという事がです、それこそ光の輪が輪には輪を生んで行くでしょう、それが日本だけではありますまい、縁に任せて地球上の人類の上に、及ぼして行けれる程しのおかげを頂いて、そういうおかげを確信して。
そして世界総氏子の身の上の安全であり、世界真の平和でなからなければ、私しゃ本当なおかげになって来ないと思うです。ですから先ず自分の手元から、教祖様が教えられます様に、例えば自分の庭を掃くでも、自分の庭を綺麗にするという事は世界が綺麗になる、という事に繋がる事だと、いうて居られます。ですから掃いてから、隣のゴミをば掃きやっとる、という事ではいけない訳でなんです、自分さえ良ければ良いという事ではいけないので、自分が頂いておる御かげをです。
自分が綺麗ににすれば隣の人も、はァ綺麗になった美しゅうなったと、内も美しゅうしようか、といった様な働きを呼んで行かなければいけんのです。光の輪が広がりに広がって行く、そう言う私は御用をお互いが担当さして貰えれる信者にお取立てを頂かなければいけないと思います。お暑いのにお話を聴いて頂いた訳ですけれども、私が今日皆さんに聴いて頂いた事を本気でそれを感じて下さり、本当に合楽示現活動、私はもう一つ驚いて居る事があります。
先日十三日会で、この示現活動の事を、私にお話しました、そうしたら、文男さんがこんな厚い辞典を持って来ました、示現ちゃあこう言う字が書いてある。字引きにはどげん書いちゃるじゃろうかと、辞引きを引きました、ところが私は無学なもんですから、神様から頂いたお知らせは、シ現とこう思うたから合楽シ現活動、合楽シ現活動、知らんちゃ、良かこつで有りますですね、処が辞引きには示現と書いてある、しかもその脇がこう言う風に書いてある。
神や仏が不思議な霊験を、示し現す事だと書いてあったそうです、ですから皆さんがその示 現運動に参画されて、そのおかげと言うものが、それは自分のじゃない、自分が取次のじゃない、そこに、神や仏の言うならば不思議な、霊験を現す働きが必ず始まって来るという事です、信心本来どこをどう目指させて頂く事が本当かと、いう事を一番始めに申しました様にね。
幽霊の正体見たり枯れ尾花である、自分の難儀という正体を、見極めて行くとそれは恐いものでも、腹の立つ問題でもなかった、神様に、お礼こそ申し上げなければならない事であったと、云うところまで行かなければ、恐いもので、腹の立つものなのです、そこまで行って見ると、始めて正体が解るのです。神様の心が判るのです。それこそ、神愛に感動致します。
私二十五年前に終戦が無かったら、引き上げが無かったら、あの時分の時の貧乏が無かったら、今日の合楽は生まれていないです。しかも合楽が二十五年間の沈黙を破って、そして合楽を現そう、それを世界に問うと言うております、所謂先日から言って居ります和賀心時代を創る、これはもうあらゆる全教一心、全教一家という事を三代金光様がお言い出しになって居られました。
もちろん、これは金光教の信者又は教会全部が寄って一丸になって、一家の様にという事で有りましょう。けれどももっと大きく頂きますとです、全教なんです世界にある宗教の全てなんです。人が助かるという程しの、言うならば、宗教であるならば、その宗教人が言わば全教一家になって現在の世界の難儀、地球上の難儀に取り組まなければならない時なんです。
先日大阪の泉尾の教会の先生の、お話の本を読まして頂きましたが、今丁度、世界旅行をなさっておられます。それは、自分でも言うておられます、世界、世界総助けの旅と言うて居られます、もうとにかく、大阪当りでじっとしては居られんのだと、世界中に金光様の信心の有難い事を、説いて明かさなければいけないという、言うならばそのもう七十幾つでしょうけれども、そういう熱血漢の先生です。私共はその世界旅行まではしきらん。私の流儀は違います。
やっぱり私は、畳半畳に座り込ませて頂いて、ここで、御かげを受けた方達が、いよいよ、そういう、合楽示現活動をして下さる、という事が願いなんです。いよいよ神様が助かって下さる。いよいよ、私共が助かられる道が、合楽の場合始めて、こう開けて来る様な気が致します。六月の三十日の御祭りをここでは昔は大祓い、それは御本部御造営の事の為に祈られた、願われた。筋金がちゃんと立っておる。
¥そういう信心を私共も矢張り、ひた受けに受けさせて頂いて、只願うだけではない、守る願いも良かろう、攻める願いも又有難い、そしてその根底を為すものは、只々お役に立ちたい、立ちたいの一念からそれを願いを祈願すると言う、今日は御祭りで御座いました。ですからそう言う願いを神様が如何に待ち望んでおられるか、それを神様の願いとして居られるか、という事を解らして頂いたら、願わずには居られない。
神様も又御かげを下さらずには置かない働きがそこから生まれて参ります。自分が安気安穏、只極楽行きをする為のものではなくて、何処までも楽行きの為の願いなのです。どうぞ、合楽という言葉に誤解が無い様に、合楽という事は楽を合わせると書いてある、言うならば神も助かり、氏子も立ち行く、親も喜び子供も喜べる、拝み合うて行けれる信心の御かげを現して行くと言う意味なので御座いますから、この頃私はもうそれこそ、人の顔さえ見れば一生懸命それを、ここでその話をするのです。
夕べも前夜祭でした、前夜祭で私が申した事ですけれども、昨日はもうお祭りの前日になりますから、都合でお参りが出けません人がお参りをして来る、言うならば遠隔地から、東京鹿児島又は広島辺りの遠隔の御信者さん方が、家族中で昨日はお参りになった、壱岐、熊本からも泊りがけで、お参りになって居られる。ところが悲しい事には、この一ヶ月間の私の話を聴いて無いものですから、私がお話を致しましても何か今まではまあ言うならばです、表行の信心をすると言ったのが。
この頃はそれとは反対の事を説かなければなりませんから、兎に角こう交流しない、だからそういう意味で今日は私はその事を、何故私の信心が二十五年間の沈黙を破って、今までと違った事を言うて居るという事、言うならば反対の事を言うて居るという事ね。そういう信心をです、皆さんが行として下さって、御かげを頂いて下さるなら、いよいよ皆さんの家庭に、合楽を現す事が出来るだろう。
言うならば、合楽の家庭を見て下さい。九十になる両親そして私共、そして長男夫婦そして子供達がみんな、それぞれにです四人の息子はそれぞれに、お道の教師としてお取立てを頂き一番下のが今学院に行っております。それこそ言うならば足ろうた御かげあれが有るばってん、今日は私がお供えなんか見て思いました。前の方にお供えしてあるこちらは真っ赤な箱にお神酒が入っておる。
こちらには真っ白いあれは何ですかねぇ、白鶴こちらには月桂冠赤と白がこう両方に、こちらのお米がこう何とはなしに足ろうておる。私は足ろうた御かげでなければいかんと思うです、御かげで健康であるばってん、お金に不自由しとる、お金は沢山あるけれども、家内が言う事を聴かん、息子が出けそこなうとる、という様な事じゃいけん。私の息子がどうちゅうがじゃ無いけれども、取分け器量が良いの、頭が良いのと言う事じゃ無いけれども、神様の御かげで。
言うなら私の智恵力でここまで、御かげを頂いて来たのでは無くて、何処までもそれは場合には、目に余る様な事も御座いますけれども、そこを神様にひた願いに願わして頂いて、御かげを頂いておりましたら、神様がある時士農工商が揃うたと頂きました。四人私の長男が普通高校、二番目が農学校、三番目が工業学校、四番目が商業学校。もう頭が悪いもんじゃけん、日田商業でん行ってからち、悔やむ事は何もいらん、そう言う神様の、士農工商、の言うなら足ろうた御かげを下さる事の為に。
そういう働きがあって居るんです。だから私は金光様のご信心は、足ろうた御かげで、なからなければいけないと思うんです。それでも親先生、貴方は糖尿病じゃないですか、成る程私は糖尿病です、けれども私は、糖尿病だけれども、甘い物も頂く辛い物も頂く、沢山頂きますけれども、私は糖尿病と言う名の神様の御都合だと思うております。糖尿病じゃないです、糖尿病と言う名の神様の御都合なのです。
皆さんが今そこに難病を持って居られるならば、例えば、肺病なら肺病であるならば、肺病と言う名の神様の御都合ですから、そのご都合を判らして頂く事に、精進させて頂く事、それが言うならば、「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」もうそりゃもう、肺病なんかでもう這いも立ちも出けんごたる人が助かって行きよる。癌が御かげ頂きよるです、もう本当にそうです。
もうあの、ここに久保山と言う人が居られます、リュウマチで大変難儀をして居られた、もうそれこそ医者の治療が痛うして、痛うして堪えんけれどもお参りさせて頂く様になったらです、日に三回も、その足から水を取らなければならないのが、水が全然溜まらなくなった、座られる様になった。さあ嬉しうて応えんから、同病相憐れむです、隣の人がえらいこの頃お母さんが出て来なさらんけん、どうしたの聞いたらリュウマチで、こげなそりゃあ治療しよるばってん、そのう畑に出て来られんごとなった。
そんならどうでんこうでん、合楽にお参りしなさい、私がこげん御かげを頂いたけんという訳です。そういう風にです、おかげを頂いております、だから先ず私は半信半疑の上で疑うても良い。だから先ず願わなければいけない、そしておかげを成る程神様のおかげだなあ、と思われる様な、おかげを受けなければいけない。そして今日私が申しました内容を段々身につけて行くと言うおかげを頂いて頂きたいと思います。
どうぞ。